ニコちゃん備忘録

消化しきれない、もしくは覚えておきたいアレやコレたち

子育ては面白い

 深夜2時半の授乳。スマホのライトを赤ちゃんの顔に当たらないように授乳クッションの下に入れて、パンパンに張ったおっぱいを赤ちゃんに吸ってもらう。破れそうだったおっぱいが圧を失っていくのは、快感と言っても過言ではない。

 スマホと授乳クッションの合わせ技による間接照明のおかげで見える、赤ちゃんの目を閉じながらおっぱいを吸う顔を見て、興味深い気持ちが湧く。夜中1時に目が覚めて、直前に見た子供がいなくなる夢が夢であったことに安堵した。赤ちゃんのパパに似ていると言われる端正な顔を見ながら、本当に現実でなくて良かったと、改めて思う。

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 前日の夜9時半頃、私は赤ちゃんを寝かしつけるために鼻歌を歌ってゆらゆらしながら、前々日の1ヶ月健診の時に一緒になったママさんに、LINEの IDを聞かなかったことを後悔していた。

 そのせいか、夢の中で私は初めて会う女の人と食事をしていて、子供がいなくても「大丈夫大丈夫!」とたかを括っていた。数時間後にまだ子供が見つからなくて、物凄く慌てて方々探し回るも、結局見つからなくて、子供がどうなっているのか想像もできなくて、絶望したところで目が覚めた。

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 母子手帳や健診の問診票で、「子育ては楽しいですか?」という項目がある。その質問に対して、はい、いいえ、のどちらに丸を付けるか、私はいつも悩む。なぜならば私にとって子育ては、一概に楽しいものだと言い切れないから。

 自分の時間の殆ど全てを、自分以外の人のために差し出す、途切れることのない自己犠牲。ご飯やトイレやお風呂もままならない、人間らしい生活の欠如。吹けば飛ぶような、ガラス細工のような小さな命を守らなければならない重責。

 発達したSNSの向こうにある、キラキラした世界への嫉妬と羨望。家から出られない閉塞感。感じたことを共有できない孤独感。将来の漠然とした不安。

 そうしたものを無いものにできなくて、子育てが私の中の楽しいという定義に当てはまらなくて、そう思う私は欠陥人間なのかと悩んで諦めていた。どんなにSNSや看護師さんに「お母さん頑張ってますよ」と言われても、楽しいと思えないことへの劣等感と罪悪感は拭えなかった。

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 けれども今日初めて、おっぱいを吸う赤ちゃんを「面白い」と自然に思えて、まじまじと見つめた。上の子が意思表示をするようになって「面白い」と思うことは多くなったけれど、自分の意思を表現できない生後1ヶ月の赤ちゃんをこれほど気軽に面白いと思えたのは初めてで、なんだか感動した。

 赤ちゃんに対する興味は常にあった。けれどもそれは強迫観念にも近くて、赤ちゃんを死なせてはいけない、泣かせてはいけない、母親失格と思われないように、と思う気持ちが強かったように感じる。そんな責任感と世間体を手放して、純粋に赤ちゃんを愛しているか、自分に母性があるのか、自信がなくて、不安だった。

 赤ちゃんに興味を持って、面白いなあと感じると、楽しいってこういうことかと初めて気付いた。私の中で楽しいという感情は、無責任で自由の中にしか無いと思っていた。子供を持ってからは、無責任も自由も縁がなくなったので、楽しいの意味が分からなかった。色々考えすぎて、勝手に不安になって、子育てに夢中になりきれなかった。

 やっと夢中になれたのか、不安が無くなったのか、分からないけれど、今まで自分を許せなかったのが、許してあげてもいいと思えるようになった。自分はおかしくないのだと、ちゃんと楽しいと思えるのだと、少し自信が持てるようになった。

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 「楽しいですか」という聞き方にも語弊があると思う。楽しいですか、ではなく、面白いですか、と聞かれていたら、こんな長年悩みはしなかったのに。

 子育ては、楽しいのではなく、面白い。赤ちゃんの表情にしても、自分の時間の使い方や気持ちを見つめ直すにしても、余裕がなくてぶつかり合う家族関係にしても。ドラッグストアの駐車場で、ワガママを言う上の子を叱ると、泣きながら「ママとずっとくっついていたい」と言われてキュンとしたり。

 絶対に絶対に目を離さない。子供を守るためなら、自分の時間くらい、いくらでも喜んで提供する。だからどうかいなくならないで欲しい。ずっとそばで成長を見せてほしい。いなくなったらと思うと怖い。怖いのを忘れずに大切にできるよう頑張ろう。