ニコちゃん備忘録

消化しきれない、もしくは覚えておきたいアレやコレたち

人生で二度目の運動会

 ニコちゃんの運動会があった。ニコちゃんにとって、人生で二度目の運動会。昨年は、三十八度の熱がありながら、一生に一度だからとママに無理強いされて連れて来られて、次の日寝込んだ可哀想なニコちゃん。今年は無事に最後まで元気いっぱいに参加してくれた。ママは胸をなでおろした。

 ニコちゃんの成長はもちろん嬉しくて、初めての開会式、昨年よりもしっかりとした足取り、無事に大きくなってくれたこと、できることがどんどん増えていくことに感謝をする。ニコちゃんや同い年のお友達だけではなく、ひとつ上の学年の子供たち、年少の学年の子供たち、年中組、年長組のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちの姿を見て、彼ら、彼女らにニコちゃんの未来を重ねる。立派に競技や演武をやり遂げる彼ら彼女らは、頼もしく、勇ましく、尊く、涙が出そうになる。

 精神科医のシロクマさんのブログで、現代人の多くは中世のブルジョワのようになってきている、という記事を読んだ。大学を出て、医者や弁護士やその他の職業に就いて、シャカリキに働くライフスタイルは、昔はブルジョワジーだけだった。ブルジョワには乳母やメイドがいて、家事や育児を人任せにして、働くことに専念することができた。高度経済成長期の日本は、専業主婦が家事や育児を請け負い、夫が稼ぐことによってブルジョワのスタイルを維持し、一億総中流、なんて言い方もされた。けれどもバブルが崩壊し、高い給与を維持できなくなり、ブルジョワのような働き方は無理がある、という内容のブログだった。(間違っていたらすみません)

 家事や育児を完璧にすることを求められたり、それに応えられないことに自分が欠陥品のように思えたりする感情は、今の日本において間違ってないのだ、というように思えて、嬉しかった。高度経済成長期の専業主婦が出来ていたのだから、お前も出来るはずだ、怠けているだけだ、と言われると反論できなかったのだけど、その頃とは時代背景も家族形態も給与体制も違う。現代に生きる日本人がサボりすぎなわけではないのだ。金は心を癒してくれる。金がなければ心はすさむ。

 家事手伝いをする人がいてくれて、義父母、義祖父母と同居で、気苦労は多かっただろうけど、その分家事の負担も少なかったであろう母に、仕事をしながら全ての家事をやる私へダメ出しを食らう謂れはない。私は私の背景があるのだから、全てを母の理想になど合わせていられない。

 近くに暮らし、様々なメリットを享受する感謝をしつつ、母は私ではなく、私は母ではないという線引きは明確にしておかなければ、私の精神は病んでしまう。母を多少傷つけようが、自分の身は自分で守らないと、誰も私を守ってくれないのだ。夫以外は。夫も日中はいないので、自分ひとりで闘う他ない。家族と闘うだなんて、誰に言っても共感してもらえないだろうけど。

 傷つけ合うのではなく、分かってもらうために闘う。愛してはいるから、愛してもらえてはいると思うから、配慮のない言葉たちと闘う。言い返して傷つけてしまいたい気持ちと闘う。自分の中の残虐性と、良心と闘う。しぬまで彼女らは変わらないから、上手に付き合える方法を模索する。嫌な気持ちに負けず、大事にして、後悔しない付き合い方をしたい。大切だという気持ちは伝えていきたい。

 夫が私のブログを読んだ。恥ずかしいのでブログの更新は控えていたのだけれど、文字にすることは掛け替えのないストレス発散方法なので、変わらず綴ってみる。閉会式のフォークダンスのとき、夫が見てくれていないことに不貞腐れてしまったのだけれども、実は二階席からずっとビデオを撮ってくれていたのだそう。必死に手を振ったけど、気付いてもらえなかった、私が夫を探して不貞腐れている様子がありありと分かった、と。空腹だったんです、と、ここで言い訳しておきます。