ニコちゃん備忘録

消化しきれない、もしくは覚えておきたいアレやコレたち

祖母と焼き鳥と、鰻と蕎麦

可哀想な人だと思うことにした。それで自分の中の怒りを鎮めようと。何しろ相手は86歳の老女なのだ。

残された未来は私のそれよりずっと少ない。人の気持ちを推測できずに傷つけることしかできないなんて、なんて可哀想な人だろう。だから私は、彼女に腹をたてる必要はない。

夕飯前で機嫌が悪く、手を洗うことを拒否するニコちゃんを、抱きかかえて実家の台所のシンクで手を洗わせようとした。

実家に併設された店で働いているので、店の日は実家で夕飯を呼ばれることが多い。申し訳ないと思いながら、夫のご飯も頂く。今日も甘えさせてもらった。母は店の経営で忙しく、いつもは叔母が家のことを手伝ってくれる。今日は叔母が休みで、そんな日は祖母が主に家事をする。

ニコちゃんをシンクの高さまで彼女の後ろから抱き上げて、蛇口をひねり、水を出そうとした。その瞬間、ニコちゃんは蛇口の左上の30cmほどの高さの台に置いてあった浄水器のホースを掴んで引っ張った。浄水器はあっけなく落ちた。大きな音がして、ニコちゃんの曾祖母、つまり私の父方の祖母が何事かと顔を出す。

「どうしたん。」「ママが冗談なことするから。」「(ペットボトルで作った足台をセットして、)この台使い。」私は浄水器を元の位置に戻し、祖母がニコちゃんの手を洗ってくれた。

冗談?嫌がる子供を抱きかかえて手を洗わせることが?嫌がって手を洗わない二歳の子供を手を洗うよう説得して言い聞かせる方が現実的でない。理想はわかるが、現実は違うのだ。祖母は私ではなく、彼女は私たちの生活を一部始終知っているわけではない。

そして子供は悪さをするものだ。それは親が保護監督すべきだけれど、全てを制御できるわけではない。努力はするけれど、防ぎきれない時もある。二十四時間神経を張り詰めている。けれども失敗することだってある。

それは全て親の責任なのか。家庭の外に出れば、そうかも知れない。私もより神経を使う。けれどもここは家庭で、家族であれば私を糾弾するより、失敗を慰めて欲しかった。一緒にニコちゃんの叱って欲しかった。

それらの感情の機微を、祖母に伝えても意味がない。彼女は自分への意見や否定を聞き入れない。何か言えば、ひどく傷ついた顔をして、私は後味が悪くなる。彼女は老女で、社会的弱者で、守られなければならない存在だという私の中のくだらない常識も、私の発言を妨げる。

私が発する言葉は祖母を傷つける。私は必死に祖母の発言に対する憤りを呑み込む。彼女は可哀想な人だから、彼女は可哀想な人だから、彼女は可哀想な人だから。上記の叔母とは別の、遠く離れた地で住む叔母に対して、二度目の流産の時に、「いやぁ。」と言ったこと。その発言にその叔母は二度と祖母には言わないと決心したこと。意図せず相手を傷つける。彼女は可哀想な人。

夕飯は、コンビニの焼き鳥かと思われた。テーブルにも、コンロにも、それしかなかったので。祖母からの説明もない。「夕飯は鰻にしようか。」と言っていた鰻もどこにも見当たらない。

お腹の空いていたニコちゃんに、とりあえず焼き鳥を食べさせる。実家は長年住んでいた場所だけど、家事は主導権を握る人以外は勝手がわからない。野菜や汁物が欲しいけれど、焼き鳥を食べるニコちゃんから離れられない。今目を離すと、確実に洋服はタレまみれになる。

「温めたらいいのに。」そう言うなら、温めて欲しい。祖母の「温めたらいいのに」は、「自分で温めなさい」と同義語だ。今私は手が離せない。祖母は自由に動ける。彼女は察する能力が乏しい。そして私は言葉にする能力が欠けている。

コミュニケーションが上手くいかない時は、どちらかが一方的に悪いということはないと思う。どちらかが相手の欠点を補うことができれば、それは上手く機能する。どちらも欠点だらけであれば、コミュニケーションは機能不全に陥ってしまう。

その時の祖母と私は、まさにそれ。コミュニケーションが取れていない。私は察して欲しい、ばかりで、自分の要望を祖母に全く伝えていない。それなのに祖母の言葉に傷ついたりイラだったり、非常に自分勝手だ。原因は自分にもあるのに。

テーブルの上にあった玄米のおにぎりを食べさせていると、「白いご飯も炊けている。」と祖母が言う。「よそって持ってきて。」と、ようやく言葉にできた。祖母は嫌な顔ひとつせず、子供用のお茶碗に白いご飯を入れて持ってきてくれた。なんだ、そんな簡単なこと。ささくれだった私の心は少し柔らぎ、ニコちゃんにご飯を食べさせることに専念できた。

鰻を冷凍庫から出し、レンジで温めてパッケージのまま差し出してくれた。パッケージの説明書きには「パッケージから出してレンジで温めて下さい」と書いてあった。それを祖母にも事前に伝えてもいた。

祖母も母と同様、長年店を切り盛りし続けて、家事は人任せだった。今は母が経営にたずさわり、祖母は退いている。母に代わって洗濯や掃除や炊事をしてくれている。けれども炊事はどうやらあまり得意でないようで、段取りはおぼつかない。

なにせ86歳の老女なのだ。病気をせず、寝たきりにならず、元気で、背筋が伸びているだけでも驚きなのに、家族の身の回りの世話をしてくれて、ひ孫たちの面倒までも見てくれる。とても86歳に思えないので、つい可哀想だということを忘れてしまう。言い訳だけど。甘えさせてくれる祖母には基本的にはとても感謝している。

ニコちゃんがお腹がある程度満たされてオモチャに気を取られて食べなくなって、「ママこっちおいで!」と聞かないので一緒にレゴをしていると父が帰ってきて、祖母が父のご飯の準備をして、母が台所にやってきてニコちゃんと遊んでくれる。

「あんたも食べ。」と祖母が鰻丼と蕎麦を作ってくれて、私はありがたく頂戴することにする。ご飯を作ってもらって、綺麗に盛り付けてもらって、食べるだけの状態にしてもらうのって、なんて幸せな気持ちになるんだろう。祖母の気持ちが嬉しい。

私は夫をそんな気持ちにさせてあげられているんだろうか。「感謝してほしい」そう思うばかりで、幸せを願うことなどできてなかった。

私は何も分かっていない。木を見て森を見ていない。目先のことに捉われず、全体を俯瞰し、相手を思いやる心と感謝の心と謙虚な心を持つ。思ったことを素直に伝える。相手の立場を考える。

何一つ出来ていない。何一つ自分一人ではできない。でも、それでいいのだ。そのことを忘れず、人の助けを借りて、感謝すればいいのだ。

祖母はちっとも可哀想な人ではない。私もまた、可哀想な人ではない。人を、自分を、可哀想だと憐れむのは、自分のことを何様だと思っているのか。それは驕り以外何者でもない。相手の立場を考えない愚か者だ。

…それでも、つい、思っちゃうんですよねぇ。そうやって自分を慰めているのかも知れません。優劣をつけるのは愚かだけど、優劣をつけずにもいられない。そんなものなのかも知れませんね。